実務上最も重要で、かつ最もトラブルになりやすい「先使用権(せんしようけん・79条)」について、ゼロから解説します。これは一言で言うと、「早い者勝ちの特許ルールにおける、唯一の『例外』」であり、「老舗(しにせ)を守るための権利」です。
1. 先使用権(79条)のストーリー
~「頑固オヤジのラーメン屋」VS「大手チェーン」~
【登場人物】
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あなた(Aさん): 昔ながらのラーメン屋の店主。秘伝のスープを開発し、細々と営業中。特許なんて興味なし。
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B社(大手): 後から同じようなスープを開発し、すぐに特許出願した企業。
【第1幕:ある日突然の警告】
あなたは、もう5年も前から「秘伝スープ」でラーメンを売っていました。
ある日、大手B社があなたの店に来てこう言います。
「このスープの製法、先月うちが特許を取りました。あなたがこれを使うのは特許権侵害です。今すぐ店を閉めるか、ライセンス料を払ってください!」
【第2幕:あなたの反論】
あなたは怒ります。「ふざけるな! 俺はあんたたちが特許を出すずっと前からこの味でやってるんだ! パクったわけじゃない!」
しかし、B社は冷たく言います。
「特許法は『先願主義(早い者勝ち)』です。先に発明したかどうかは関係ない。先に『出願(手続き)』をした我々が勝者なんです」
【第3幕:79条の救済】
B社の言うことは原則としては正しいのですが、これではあまりにあなたが可哀想ですよね。
そこで登場するのが「先使用権(79条)」です。
法律の結論:
「Aさんは、B社が出願する『前』から、そのスープを作っていた実績がある。
だから、特許権に関係なく、タダ(無償)でそのまま店を続けてよし!」
これが先使用権です。
2. なぜ「タダ」で使えるのか?
中用権や後用権は「お金(対価)」が必要でしたが、先使用権はタダ(無償)です。なぜなら、「あなた(Aさん)には1ミリも落ち度がないから」です。
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あなたは誰のアイデアも盗んでいません(独自に発明した)。
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あなたはB社より先に事業を始めていました。
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ただ「特許庁に手続きしなかった」だけです(特許を取るかどうかは自由です)。
「先にやっていた人」の既得権(今まで通りの生活)を守るのは当然のことなので、B社にお金を払う義理はないのです。
3. 先使用権が成立するための「3つの条件」
「前からやってました」と口で言うだけではダメです。以下の3つを証明する必要があります。
① 特許出願の「際(瞬間)」にやっていること
B社が特許庁に書類を出した「その日時(分単位)」の時点で、すでにあなたが事業を始めている必要があります。「B社が出した翌日に始めました」ではダメです。0.1秒でも負けてはいけません。
② 「善意」であること(盗んでいないこと)
ここでいう善意は、「B社の発明を知らずに、独自に発明した(または正当な人から教わった)」という意味です。B社の研究所から盗み出したネタで先に工場を作っても、先使用権は認められません。
③ 事業の「準備」でもOK
ここが重要です。まだラーメンを1杯も売っていなくてもOKです。
「店舗を契約した」「寸胴鍋を発注した」「メニュー表を印刷した」といった、「即時実施の意図を持って、客観的な準備が進んでいる」段階であれば、先使用権は発生します。
4. 唯一の弱点:「範囲」の限定
~「そのまま」ならいいけど、「拡大」はダメ~
先使用権は「今まで通り続けていいよ」という権利であって、「特許権者より強くなる権利」ではありません。
そのため、「事業の目的の範囲内」という制限がつきます。
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〇 OKな例: ラーメン屋をそのまま続ける。売上が伸びて生産量が増える。
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× ダメな例: 「お、このスープ特許取れるくらい凄いのか! よし、全国展開して工場を建てて、カップ麺としてコンビニで売りまくろう!」
このように、特許出願の時点で計画していなかったようなビジネスの大転換(種類の変更など)を行うと、そのはみ出した部分は特許権侵害になります。
5. まとめ(79条 単体)
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どんな権利?: 特許出願より前からやっていた人が、そのまま続けられる権利。
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お金は?: 不要(タダ)。
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条件は?: 「独自に発明したこと」と「出願時点で事業(または準備)をしていたこと」の証明。
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注意点: 証拠(日付入りの日誌、図面、領収書など)がないと裁判で負ける。「知財管理(証拠確保)」が超重要。
それでは、「4つの権利」を、一気に横並びにして比較します。
1. 全体像:タイムラインで位置をつかむ
まず、「いつ、ビジネスを始めたか?」で大きく2つのグループに分かれます。
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グループA:出願の「前」からやっていた
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$\rightarrow$ 先使用権 (79条)
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(特許のレースが始まる前から走っていた人)
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グループB:特許が「一度死んでから」始めた
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$\rightarrow$ 中用権 (80条)、回復後 (112条の3)、後用権 (176条)
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(レースが中断している隙にコースに入ってきた人)
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2. 決定版! 4大権利の比較表
「お金(対価)がいるか?」と「特許権者に落ち度はあるか?」に注目して見てください。
| 権利の名前 | 条文 | 発生タイミング | 対価 (お金) | 判定のロジック (心の声) |
| 先使用権 | 79条 | 出願の前 | 不要 (タダ) | 「私が元祖です。後から来たお前に金を払う義理はない!」 |
| 回復後の実施権 | 112条の3 | 特許料の未納による消滅期間 | 不要 (タダ) | 「期限を守らなかった権利者が悪い。タダで使われても自業自得。」 |
| 中用権 | 80条 | 無効審判で権利者が交代する前 | 必要 (有料) | 「元の権利者もかわいそうだけど、新しい権利者への敬意(金)は払おう。」 |
| 後用権 | 176条 | 再審で特許が復活する前 | 必要 (有料) | 「権利者は騙された被害者だ。ビジネスは認めるから、家賃は払ってあげて。」 |
3. 「タダ」か「有料」かの境界線はどこ?
ここが一番の悩みどころですが、実はシンプルなルールがあります。
【タダ(無償)になるケース】
「権利者側に重大なミスがある」 or 「使う側が圧倒的に正しい」
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79条: 使う側(先使用者)は、独自に発明した正義の人です。文句なしでタダ。
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112条の3: 権利者が「期限管理ミス」という大失態を犯しています。ペナルティとしてタダ。
【有料(有償)になるケース】
「権利者側には罪がない(または薄い)」
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80条・176条: どちらも、審判や裁判という「公的な判断」が二転三転した結果、巻き込まれたケースです。
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権利者は、好きで特許を失ったわけではありません。
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だから、「せめてお金くらいは払ってバランスを取ろう(衡平の原則)」となります。
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4. 実践! ケーススタディ(クイズ)
以下の状況で、Aさんはどの権利を主張すべきでしょうか?また、お金は必要でしょうか?
ケース1:
Aさんは、ライバルB社が特許出願する1年前から、工場で製品を作っていた。B社から警告状が届いた。
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正解: 先使用権 (79条)
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お金: 不要
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解説: 「出願前から」なのでこれ一択です。
ケース2:
B社の特許が「特許料未納」で消えているのを見て、Aさんは工場を作った。その後、B社が追納して復活した。
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正解: 回復後の通常実施権 (112条の3)
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お金: 不要
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解説: 権利者のミス(未納)なので、AさんはタダでOKです。
ケース3:
B社の特許が無効審決で確定した。Aさんはそれを見て工場を作った。しかし、実は証拠が偽造で、再審によりB社の特許が復活した。
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正解: 後用権 (176条)
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お金: 必要
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解説: Bさんは被害者なので、Aさんは対価を払う必要があります。
5. 最後に:初学者が間違えやすいポイント
最後に、これだけは気をつけてください。
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「いつ始めたか」を確認する癖をつける!
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トラブルになったら、まず**「出願日」**を見ます。
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それより前なら「79条(最強・タダ)」。
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それより後なら、「特許が死んでいた空白期間はあるか?」を探します。
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「中用権」という言葉を乱用しない!
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80条以外(特に112条の3)を中用権と呼ぶのは、プロの前では禁物です。
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これで、中用権・後用権・先使用権の3大セット(+112条の3)の解説は完結です!法律の「公平さを保とうとする意図」が見えてくると、丸暗記しなくても答えが出るようになりますよ。